2012年2月12日日曜日

自分は何人(なにじん)???

自分は何人だろうかと考え直すエピソードがあった。

もちろん、自分の両親は日本人、生まれも育ちも日本で普通に考えれば日本人である。

だけれども、アメリカや他の国に住んでいる人から客観的に見られた場合、何人なのだろうか。

今日、バスを待っている時の話。

そのバス停は、アパートの入口の目の前にあるため、私は アパートの中でバスを待っていた(外は寒いため。)。他にも数人、私と同じようにアパートの中でバスを待っていた。

数分後、一人の20代前半の女性(日本人ではなく東アジアの人)が荷物を抱えてドアを開けて入ろうとしてきたところ、私と同じようにバスを待っていた若い黒人男性が彼女のためにドアを開けた。そうしたところ、その女性は何事もなかったようにさっと中に入ってスタスタと歩き去ってしまった。その黒人男性がその女性の背中越しに「you are welcome」というとその女性は振り向きはしたもののそのまま去ってしまった。

1分後、また別の20代前半の女性(先程の女性と同じ国の女性と思われた)がベビーカーを押して、アパートから出ようとしたため、私と一緒に待っていた友人がドアを開けたところ、その女性もまた、何事もなかったかのようにさっと外へスタスタと歩き去っていった。

それを見ていた先程の黒人男性が強い口調で私たちに話かけた。
「なぜ彼女らは他人がドアを開けたことに対して何も反応がないのか。小さい子供ですらありがとうということができる。なぜ他人に感謝の表現をしないのか。」

彼の言うことはまさに正しい。

彼は私たちをどのように見ていたのだろうか。
最初、私は彼女たちとは国も文化も違うのだから仕方ないという感覚を持った。そして、彼女たちとは国も文化も同じように見られたくないとも。。。。。

しかし、黒人男性は先程の女性達と私を同じ国の同郷と見ていたのではないだろうか。
中国、韓国、日本など、外から見れば違いなどさっぱりわからない、同じ東アジアの人間と見られるのが普通ではないだろうか。

こちらに来て、たくさんの素晴らしい東アジアの人たちと出会った。国々の間に難しい問題があるのは仕方ないことだが、「批判」「いがみ合い」からは何も生み出されない。

今日の出来事を踏まえ、私自身、横たわる問題を語ること時と、世界の中での語る時とをしっかり分けて(主観と客観を隔てて)考える必要があると感じた。中国、韓国、日本、世界の中では、一つになっていくべきというか、世界からは一体のものと見られうるものだという認識をもっと持っていく必要があると感じた。

アジアの中では日本人ではあるけれど、世界の中では東アジア人なのだと。
日本に戻った際には、東アジアの文化的発展の前進のため、少しでも貢献していきたい。

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