2012年2月29日水曜日

自分(日本(人))の立ち位置

自分はどのポジションにいるべきだろう?

ここ最近、これからの日本はどうあるべき(日本の国際的な立ち位置)について良く考える。

外交の専門ではないため、細かい点は良く分からないが、多国籍の学生の中に身を置くと、改めて、日本(人)の国民性が身にしみて感じ、日本が目指すべき方向性に疑問を抱く。

典型的だったのが、今日のフットサルの試合。チームは同じ院生から構成され、試合と言っても大学内のリーグ戦で素人が多く混じっている。チームの国籍は、アメリカ、ヨーロッパ、中東、南米、日本人と様々。

私から見れば気分転換のためのゲーム。だが、他のメンバーは違った。日本人との違いで特徴的なのは、

1.皆、スタメンで出たがる。
2.交代しようとしない。キーパーをしようと名乗り出るものはいない。
3.全員が楽しめるように配慮はしない(キャップテンですら。)
4.自分が点を決めることにこだわる。
5.日頃冷静でクレバーなメンバーもとても熱くなる。
6.つまり、自分のことしか気にしない(回りを気にせずに行動ができる。うらやましい。。。。)
誰かがサブになる、キーパーになると言わないとゲームが開始されないので、日本人(特に私。。。。)はサブに回る。

こうしたところから見えてくる点は、まず交代するにせよ、強く主張しなければ出番も回ってこない。誰も全体を見渡していると(勝手に)思っている日本人(日本)に配慮する者はいない。誰も感謝はしない。やはり、自分からの仕掛けが必要(自分からいかなければ、せっかく行ってもただ座っているだけ。)
※これは東アジアでも日本だけの特徴ではないか。今日のフットサルの対戦相手は韓国人の若手チームだった。彼らは血気盛んで我がチームとのプレイ中の接触であわや乱闘を起こしかねないくらい積極的だった(ただ、同じ大学院の大人の韓国人は彼らと異なりとてもおだやか(国にはいろんな人がいるのは当然で、固定観念を持って接してはいけないと感じる。)。

大学院の授業のディスカッションでも、グループワークでも同様の状況がよく起こる。

今日感じたことは、これは大学に限らず、外交の場でも同じではないか。アメリカに来る前に参加していた国際会議などでも、客観的にみれば(他国が考えることは)、日本は座っているだけ(というか視野に入っていない。)、EUや米国などの主張する案にどうするかと受身なことが多かったではないか。

日本はよく、世界平和のために国益よりも世界益というが、このような考えをもつのは先進国を含めても日本だけではないか。この考えは他国から感謝、理解されているのだろうか?日本の世界益の前に、EU、米国と同様にがつがつ国益を追いかける必要があるのではないか?積極的に「仕掛け」ていくべきではないか?控え目さ、つましさ、日本の文化は尊重されるべきであるが、国際的に通用するべき国民性を身につけることも同様に尊重されるべきではないか(日本は日本語と英語を公用語としてもいいのでは。)

この話を日本人の友人にしたところ、国際援助の分野では日本の控え目な態度が特にアフリカで好意的だという。日本のこうした独自のスタンスが世界の中では必要だとの話だった。

確かに、である。なんでもかんでもどの分野でも「ガツガツ」行く、または控え目に行くではなく、どの分野で攻め、どの分野で日本の独自のスタンスを貫くのかをうまく使い分けていく方がいいと感じた。こうした状況に応じた振る舞いができる先進的な文化を持つ国になれるようにならなければ、20年後の日本の衰退は止まらないのではないか。
とても具体性はなく抽象的な話であるが、今後もさらに自分の考えを踏まえ、帰国後の業務に活かしたい。

いずれにしても、国際社会(まだ、大学での経験しかないが。。。。)は、フットサルや授業ですら個々人のスキルや能力がないものには本当に容赦なく相手にされない(日本的な穏やかで場を乱さないということはまったくの評価外。強引でもゴールに向かって、相手の意見を押しのけても積極的な貢献することが評価されうる。)。
日本のプレゼンス以前に、自分のプレゼンスも上げていかなければと思うこの頃(しかし、なかなか、英語の壁、アメリカ人の壁は高い。。。。)。

2012年2月12日日曜日

自分は何人(なにじん)???

自分は何人だろうかと考え直すエピソードがあった。

もちろん、自分の両親は日本人、生まれも育ちも日本で普通に考えれば日本人である。

だけれども、アメリカや他の国に住んでいる人から客観的に見られた場合、何人なのだろうか。

今日、バスを待っている時の話。

そのバス停は、アパートの入口の目の前にあるため、私は アパートの中でバスを待っていた(外は寒いため。)。他にも数人、私と同じようにアパートの中でバスを待っていた。

数分後、一人の20代前半の女性(日本人ではなく東アジアの人)が荷物を抱えてドアを開けて入ろうとしてきたところ、私と同じようにバスを待っていた若い黒人男性が彼女のためにドアを開けた。そうしたところ、その女性は何事もなかったようにさっと中に入ってスタスタと歩き去ってしまった。その黒人男性がその女性の背中越しに「you are welcome」というとその女性は振り向きはしたもののそのまま去ってしまった。

1分後、また別の20代前半の女性(先程の女性と同じ国の女性と思われた)がベビーカーを押して、アパートから出ようとしたため、私と一緒に待っていた友人がドアを開けたところ、その女性もまた、何事もなかったかのようにさっと外へスタスタと歩き去っていった。

それを見ていた先程の黒人男性が強い口調で私たちに話かけた。
「なぜ彼女らは他人がドアを開けたことに対して何も反応がないのか。小さい子供ですらありがとうということができる。なぜ他人に感謝の表現をしないのか。」

彼の言うことはまさに正しい。

彼は私たちをどのように見ていたのだろうか。
最初、私は彼女たちとは国も文化も違うのだから仕方ないという感覚を持った。そして、彼女たちとは国も文化も同じように見られたくないとも。。。。。

しかし、黒人男性は先程の女性達と私を同じ国の同郷と見ていたのではないだろうか。
中国、韓国、日本など、外から見れば違いなどさっぱりわからない、同じ東アジアの人間と見られるのが普通ではないだろうか。

こちらに来て、たくさんの素晴らしい東アジアの人たちと出会った。国々の間に難しい問題があるのは仕方ないことだが、「批判」「いがみ合い」からは何も生み出されない。

今日の出来事を踏まえ、私自身、横たわる問題を語ること時と、世界の中での語る時とをしっかり分けて(主観と客観を隔てて)考える必要があると感じた。中国、韓国、日本、世界の中では、一つになっていくべきというか、世界からは一体のものと見られうるものだという認識をもっと持っていく必要があると感じた。

アジアの中では日本人ではあるけれど、世界の中では東アジア人なのだと。
日本に戻った際には、東アジアの文化的発展の前進のため、少しでも貢献していきたい。

2012年2月9日木曜日

車(またまたのトラブル)

またまた、トラブルのお話。少し長いですが、

1.アメリカでは交渉が重要
2.サービス業の性質が日本と違う(お客様は神様ではなく、あくまで対等)

という教訓を学びました。
※どなたか、米国民事法に詳しい方がおられたら、このような場合どうすべきであったかアドバイスいただけるとうれしいです。

さて、事件は2ヶ月程前、車のタイヤ関することです。

運転中、ふとスピード表示の脇に赤いランプがついているではありませんか。
トラブル発生かと焦り始め、いろいろと調べてみたところ、タイヤの空気圧がなくなっているというサイン。

これなら、ガソリンスタンドで直せると胸をなでおろしました。

そこでスタンドに行き、空気圧を入れる器具を手に取り、タイヤに差し込もうとした矢先、、、、
なんと空気圧を入れるタイヤのピンの先についているフタがどうあがいてもとれない!!

なぜ!?

仕方なく、車を購入したディーラーに直行(我が家の車はマツダ(!)のディラーで購入した中古の韓国車(!)KIA)。2008年製、総マイル数25000マイル。

ディーラーで車を売ってくれた担当者がいつものごとく陽気な感じですぐに付属の修理場でフタを外すよ、ノープロブレムだから、車を修理場に入れろと言うことでしばし待つことに。

数分後、硬い表情で担当者は現れ、「マツダ」の工場では外せない、近くのKIAの工場(まったく別の会社)なら工具があるのではないかとのこと。。。。

「オイっ!それはないだろ。。。」とツッコミたくなるところを必死にこらえ、そこから10分のKIA工場に向かう。

KIAにて担当者に話し、待つこと2時間、ようやく確認結果が言い渡されました。
「フタは硬くしまっていてとれない。ピンごといったん壊して再度ピンを付け直すしかない。値段はタイヤ一つにつき、300ドル程度。」
※実際フタが外せないのは、2つだけでした。

なにーーーー!!

いくらなんでもそれはないだろと憤慨し、再度マツダに戻り、KIAでの状況をマツダの担当者に伝えたところ、今度ばかりは陽気な仕草は影を潜め、「これ以上、何ができるんだ、やれることはやった」と投げやりモードに突入。

こちらからは、「タイヤの空気圧のフタがとれない車を売るディーラーがいるのか!この車は空気圧をどう調節すればいいんだ。」と米国民法に瑕疵担保責任があるのか知りませんが、こんなんでお金は払うのはおかしい、負けてたまるかと思い、しつこく担当者に直訴。そうしたところ、担当者が上司に掛け合い、所長室?のようなところでその上司との折衝が開始されました。

以下主なやりとり。
上司「タイヤは保証対象外(本体だけが保証の適用)。購入時にサインしただろう。」
私「たしかにサインしたが、タイヤのピンのフタが外せないことは異常なことで、契約事項外と考える。どのような購入者であれ、こうした自体を予想して購入する者はいない。空気庄の調整ができる車であると予想して購入するのが通常。予想外だから、そっちで修理費用は出してほしい。」
上司「そのとおり、予想外。あなたが購入する前に、一体誰がタイヤのピンがとれないことを予想できただろう。私たちにも予想はできなかった。だから我々に責任はない。」
私「売主の責任を果たせ。」
上司「それは無理だ。これは誰にも予想できなかった。道を歩いている人が突然心臓発作で倒れたり、雷で打たれたり誰が予想できるだろうか。これは仕方ないのだ。」
私「何かしら保証すべき」
上司「20ドル出そう。」
私「。。。。(20ドルで一体何ができる!?)お互いに予想できなかったのであるから、互いに負担は公平であるべき。こうした不測の事態でちゃんと対応してもらえるようにわざわざディーラーで買っているんだ(その辺りの道端の車ショップで買っているのではない。)。」
上司「我々はとてもいい案を示しているではないか。本来なら保証が効かないからこちらは一円も出す必要はないのに、20ドルも出すと言っている。We want to be nice! それに、販売前に自社で行なった点検では空気庄に異常なかった旨の結果が出ている(証明書を見せる。)。」
私「販売前の点検はどのようにタイヤのピンのフタをとったのか。」
上司「それは知らないが結果自体問題ないとなっているのだから、これはフタはとれたという証明だ。フタがきつくなりとれなくなったのは、あなたが購入後、ダートとかの上を走り、フタがきつくなったのではないか。フタがきつくなった理由など誰にもわからないが、購入後の何らかの原因によるものだろう。20ドル払うんだからそれで手を引くべき。中古車はどんな車にでも何かしらの欠陥があるもの。仕方がないだろ。」

このやりとりが1時間半どうどうめぐりし、一向に相手もひかず、どうしたものかと思っていたところ、先方がどうしてほしいんだと諦めモードで聞いてきたため、私から「半額ずつの負担にすべき」と言ったところ、「それでいこう」と最後はすんなり合意しました。

修理は1週間後で、私はこの上司の顔を見たくなかったのですが、1週間後マツダに行くと、この上司が笑顔で手を振ってきました。

マツダの上司と担当者の主張にはほとほと呆れてしまいました。みなさま、中古車購入や大きい買い物の際はどうぞお気を付けください。

本当にアメリカ社会は不思議です。